【失敗=成功】世界中から夜をなくした男 トーマス・アルバ・エジソンの半生【不屈の発明王】

フォードの自動車王、カーネギーの鋼鉄王にならってトーマス・アルバ・エジソンは発明王と呼ばれて名高い。訴訟王などとも呼ばれていることは良い子の諸君は別に知らなくてもよいことだね。

 

表題については私の所感だけど、エジソンがそれまでになかったような超効率的な白電灯を発明したことにより人類は暗い夜を克服し、活動時間は飛躍的に伸びた結果、すさまじいスピードで文明が開花していったように思える。皆さんが日々 残業をするようになったのも、僕が眠らない街 新宿のネオン街でカツアゲに遭いそうになった一因にもエジソンがある。この発明家なにしてくれとんのじゃ…

 

今現代 僕たちの身の回りにあるテクノロジーが存在するのにも 人類が暗い夜から解放されて 赴くままに活動できるようになったからことによる恩恵だ。近代の目まぐるしい文明開化はエジソンの発明、そして皆さんの過酷な残業を糧に繁栄している。誇りに思おう。この世界は誰かの仕事で出来ているのだ。

 

 

部屋の電気をつけたり 消したりするときにスイッチって押したりするよね。アレもエジソンが開発して特許取ってたりする。 そんな僕たちの ゆりかごから墓場まで、おはようからおやすみまでの暮らしを見つめているのが、このトーマス・アルバ・エジソン。控えめにいっても大天才だ。ヘレン・ケラーなど偉人が「20世紀の偉人を3人あげてください」と聞かれて 最も名前が挙がっていた人物でもある(私調べ)。

 

 

それではまず僕が好きな彼の名言を一つ紹介し、トーマス・アルバ・エジソンとはどんな人なのか、どんな人生を歩んできたのか等、彼の半生についてまとめていく。

 

 

 

 

トーマス・アルバ・エジソンとは

引用:albertjack.com

 

先ほど紹介したように発明王と呼ばれるだけあって生涯に1300もの発明、そして200を超える特許を取得するほどに発明をされた方だ。「現在よりも取得しやすい状況だったからだ」とおっしゃる人も一定数いるようだけど、それにしたって特許を200個以上も取得するのは異常、十分に偉業と言えるだろ。

 

 

では、トーマス・アルバ・エジソン。実際はどんな人だったのだろうか??

 

あーー、あの発明家でしょ?あの、わかるよ。えーと、LED(発光ダイオード)とか発明したスゲー人でしょ。ちびまる子ちゃんのOPの、あのエライ人でしょ。そんなの常識っしょ

 

というような感じで、僕も伝記とか読む前から彼が何らかの偉大な発明をした人なのは分かっていたけど、彼がどんな生い立ちで どんな節目をおくってきたのかは分かっていなかった。(ちなみにLED は全然 別の人の発明でした。)

 

そこで、この項では個人的に気になったエジソンの生い立ちやら、節目となったような出来事をまとめてみる。

 

 

出生

引用:timetoast.com

アメリカ合衆国の北のはずれ、カナダとの国境付近には5つの湖がある。そのひとつのエリー湖のそばに小さなミランという町があったそうな。そこで屋根板をつくる工場を持っていたお父さんと優しいお母さんのもとに生まれたのがエジソンだった。兄のビット、姉のタンニーがいて、家族5人で仲良く暮らしていました。

 

 

ちなみにその名前の由来としては、5つの湖きっての名船長アルバ・ブラッドレイ船長の名前からアルバ、そしてアメリカ独立戦争のときに立派な働きをしたエジソンの祖父の名前からトーマスという名前をもらったそうだ。

 

 

小学校を中退

引用:A Line from Linda

いきなり驚愕の事実。僕も驚いた。「え、エジソン 幼卒??」みたいな。

 

なんでもエジソン少年、小学校に3か月ほど通った結果 担任の先生から「君の脳は腐ってる」と衝撃的なコトを言われて登校を拒否られたそうだ。

一見 担任の先生が悪いようにも見えるが、これはそう簡単な話ではないらしく、むしろエジソン少年の無垢なる究極的な質問にも原因があるっぽい。たとえば

 

先生、なんで1+1が2になるんですか。一個の粘土ともう一つの粘土を合わせたら大きな粘土になるだけなのに。

 

先生
・・・・・・・・・・・

 

というような加算(足し算)の計算方法の定義を問うような質問をするんだ。僕が先生ならノイローゼになるぞ。一応ググってみましたが、なんか数学基礎論っていう難解な基礎論の理解が必要な質問らしいです。

 

 

そのほかにも

先生、なんで風が吹くんですか

 

先生
・・・・・・・・・・・

 

 

と いうような簡単なようで難しい質問の極地みたいな質問で先生をほとほと困らせたそうだ。そのほかにも「AはなんでPって呼ばないの?」とか言って先生を質問攻めした結果、とうとう先生から「君 もう来なくていい」宣言をされてしまった。

 

 

天才と呼ばれるようになった今でこそエジソン擁護の声があるけど、当時 その先生が発言小町とかで相談したら同情されるレベルだと思うぞ。日本じゃまず受け入れられないような個性だと感じる。

 

 

幼少期には「なぜなぜ期」と呼ばれるような、何事にも好奇心が増す時期があるようだけど、エジソンのそれは凄まじく、最終的に担任の先生から「君の脳は腐ってる」と物凄いことを言われて小学校を退学になってしまった。

 

 

その後のエジソンは、彼の探求心を信じた元教師の母による「好きな分野を伸ばそう」という教育のもとで、特に科学分野での教養と好奇心を育んでいきました。母は強し。

 

 

子供~青年間の失敗破天荒な学び

 

納屋を全焼させる

先述したようにナゼナゼ期が凄まじかったエジソンは当然(?)モノが燃えることにも疑問を抱き、

 

よし!燃やしてみよう!

 

 

と言って、藁を燃やし始める。

 

そして

 

 

 

 

 

自家製いかだで死にかける

ある日エジソン少年は なぜ船が水の上に浮くのか不思議に思った。

 

そして

よし!実際に作って浮かばせてみよう!

 

 

と思い立ち、自家製のいかだ船を作って、、、

 

 

 

 

 

 

友達にフットウサンを飲ませる

エジソンが9歳のころ、彼は自分で稼いだお金で理科の本を買うために自前の馬車を用意し、家で採れた野菜を詰め込んでヒューロンの町を売り歩いていた。ひとりでは手が足りなくなり、マイケルというオランダ生まれの子を手伝いに雇い始めるほど商売は繁盛した。

 

エジソンは10歳になったときに買った理科の実験の本に夢中になり、自分の実験室を持とうと考えたアルバは実験に使う薬品は本など自分で稼いだお金から捻出した。「誰かが自分の研究室に入ってきたらどうしよう」と考えた彼は薬品の入った瓶に片っ端から「どく(Poison)」と書いていたそうだ。かわいいね。

 

 

 

エジソンのお手伝いのマイケルは特別に実験室への入室が認められていたようで、彼に頼まれては実験のお手伝いをしていた。

 

あるとき、”空飛ぶ軽気球”について知ったエジソンはもう一刻もはやくその実験をしてみたくてたまらなくなった。

 

そして

ふうせんの中に、空気よりも軽いガスをいれると、空へのぼれる。ということは、、、、人間だって、もしかるくなれば鳥のように飛べるはずだ!!!

 

という我々 成人としては到達できない発想に至る。ムカデ人間のようなファンタスティックで柔軟な発想。

 

そして

フットウサン(ヘリウムガス)だ。一番、あわの出るフットウサンを飲んで、からだの中にガスを作れば空気よりも軽くなって、ふうせんのように空高くあがれるぞ!

 

という結論を導き出したエジソンは早速、野菜売りの手伝いに雇っていたマイケルを実験室に呼んだ。

 

 

マイケル。ぜひ、手伝ってほしいことがあるんだけど。

こんどは何の実験をするんですか。おくすりをかきまぜるんですか。それともビンをあらうんですか。

いや、そんなことじゃないんだ。この実験には、君の体がひつようなんだ。君の体をかりたいんだ。

えぇ……(唖然)

マイケル、このクスリを飲むとね、君の体はかるくなって空を飛べるようになるんだ。鳥のようにね。

えっ、鳥みたいに。ほんとうですか、それ(純粋)。

エジソンがフットウサンを水に溶かすと炭酸のように泡が立つ。それをマイケルに、ひといきで飲ませてみた。

 

マイケル、見ていてごらん。今に君の体はかるくなって、ふわふわと浮かび上がるぞ

と嬉しそうにエジソンは言うが、対照的にマイケルの方は

 

ぼく、なんだか、むねがヘンになってきたよ。。

 

と顔がだんだんと青ざめていき、すぐに床に倒れこみ「苦しい、苦しいよう。。」と、うなりごえをあげてもがきはじめてしまった。

 

 

騒ぎを聞き駆け付けたエジソンのお父さんの迅速な対処によって大事には至らなかったが、勿論 今までで一番こっぴどく叱らてしまった。

 

 

 

この件に関しては、それまでエジソンの考えに肯定的だった母親も「人体実験をするとは何事ですか!!」と激しく怒り、エジソンはあわや実験室を取り上げられる寸前まで叱られた。

 

 

 

世界初の列車内新聞売りになる

12歳の頃、エジソンは実験道具を買う資金を集めるために 仕事を探し始めた。そのとき目についたのが、列車で売り子(軽食や新聞などを売る人)の若者。これなら僕にもできるぞ、と思ったエジソンは親に相談したが、両親とも「お前にはまだ早いのでは?」といって売り子として働くことに肯定的ではなかった。

しかし、グズグズしていたら誰かに取られてしまうかもしれない!と考えたエジソンはすぐに駅の事務室に行き、管理人に自分を売り子として雇うように頼み込む。行動力の化身、、、

 

そういうわけでエジソンは自宅付近のポートヒューロンからデトロイト間の列車で売り子ができるようになった。

 

当時のアメリカは南北間での緊張が高まっていたこともあり、人々は新しい情報を求めていたので雑誌や新聞などの売れ行きが良いことにエジソンは気が付く。町の小さなニュースや噂話とかを書けばひょっとしたら自分でも新聞は作れるかも、と判断したエジソンは早速、自分で新聞を発行しようと考えた。

 

それまで文章なんて書いたことのなかったエジソンだが、既に何冊もの本を読んでいました。エジソンの勤務時間は実質的には6時間ほどだったが、待機時間としてデトロイトに8時間ほど待機しなければいけなかった。なんとエジソンは、その間 公共の図書館で一日に何冊もの本を読んで時間を潰した。

 

そういった経緯もあり、エジソンの発行した新聞「週刊ヘラルド」は好評で、何冊も売れる。一週間に1回の発行だったが、売り出した直後から売れ出し、2回目の発行までに約400人ものお客さんに買い求めらるようになった。大好評でした。ちなみに、このときエジソンは売り子勤務以外の列車内での待機時間を有効活用しようと考え、車掌に頼んで空き部屋の一つを実験所にしてる。売り上げ金でエジソンの実験所にはどんどん実験器具がそろいはじめていった。

 

といった感じで万事 好調なエジソンだったのだが、あるとき新聞内で特定の人を皮肉った記事を見た本人が激怒してエジソンは暴行を受けてしまい、これに懲りたエジソンは新聞の発行をやめる

 

 

さらには、あるとき列車が急カーブをしたときに実験所にあった可燃性の液体が入った容器が割れて列車に火が付いてしまう。今回も幸い 大事には至らなかったが、車掌は当然 烈火のごとく怒り、エジソンはそれ以降 実験所での実験を禁止される。

 

 

しかし、挫けずにエジソンは図書館での読書は続け、あるときには線路内を歩いていた駅長の息子が列車に轢かれかけるのを間一髪 助け、そのお礼として、後の人生で大いに役立つ電信技術を習得できることになった。

 

 

 

 エジソンの発明・偉業

エジソンは発明王や告訴王と呼ばれるくらいには様々なモノを発明したり、文明の大きな発展につながるようなこと、人の役に立つような発明を数えきれないほどしている。

 

エジソンの偉人、偉業に関する名言のひとつに

 

というものがある。いろんな事業や研究を同時進行していたエジソンだったので仕事面では勿論、家庭でも悩み・不安が尽きなかったようだ。しかし、エジソンの偉人たるところは、それを逃避することではなく解決方法を絶えず模索していたことだったと思う。そう考えると私たちの悩みも大きな可能性と価値が見い出せてくる気するね。

 

 

前置きが長くなったが、この項では個人的に面白かったエジソンの発明や偉業についてまとめていく。

 

 

初めての発明はサボるために

そんなことから駅長から電信技術を習得したエジソンは、次々に技術を習得し、16歳のときにはボートヒューロン駅から町の薬屋まで電線を引っ張って、その二階に小さな電信局をひらいて電報を取り扱っていた。エジソンの腕が良いことが知れ渡ると、同じ町にあるもう一つの電信局から月20ドルという好条件を出され、エジソンも快く承諾する。

 

すると今度はストラックフォードというカナダにある駅からもエジソンの腕を見込んで月25ドルという条件を提示され、すぐに旅立つことに。

 

 

月25ドルというのは当時のアメリカ、それも16歳にとっては大金だった。しかし、勤務時間が現在でいう夜勤そのものであり、午後7時から翌朝7時までという勤務形態。最初の内はアルバも昼間には興味のある勉強や実験ができることを喜んだものの、夜勤の後にも勉強に勤しむエジソンだったので、さすがに体力が続かなかった。夜中に他局からの電信が打ってこられるのを待っているとアルバはうとうと眠くなってしまう。

 

 

しかし電信技士の仕事は責任重大ですので、眠るわけにはいかない。会社のほうも、従業員に居眠りをさせないために「1時間ごとに『6』という信号を本社に向けて送るように」というルールを作っていた。うっかり寝てしまっては会社を辞めさせられるかもしれないが、昼間は昼間で自分の勉強がしたいエジソン。

 

そこでエジソンは考えました。

 

エジソン
青年

自動的にキーを叩いて、1時間ごとに信号を本社に送ることのできる装置をつければいいのでは、、、

 

そう考えたエジソンはこれまで独学で何度も行っていた実験を活かし、工夫をして自動6点発信装置を発明しました。特許こそ取得していませんが、エジソンにとっては発明品 第一号でした。

 

これで夜勤のときでもスヤスヤと眠ることのできるようになったエジソン。

 

しかし、それも長くは続かなかった。というのも、あまりにも正確無比に発信されてくるエジソンの電信を不思議に思った本社の技師がエジソンの職場を訪ね、そこでスヤスヤと眠っていたエジソンは叩き起こされ、激しい叱咤を受けてしまった。

 

幸い 解雇にはならなかったようだが、これを機にエジソンは自動6点発信装置を使用を断念した。

 

 

初めての特許の売り行きが、、、

引用:Fulcrum Gallery

 

初めての特許は1869年の6月1日のことだった。

当時 どこの州の議会でも、ひとつの議案を巡って賛成か反対かを決めるための投票に、とても多くの時間がかかっていた。

 

そこでエジソンは、これまでに様々な技術を学んだ電信技術を活かした、画期的な装置を発明しようと思い立ち、親交のあった工場長に提案をして装置を作ることにしました。それが、エジソンが初めて特許を取得した装置、電気式投票記録機でした。

 

この電気式投票記録機は、簡単に言えば、議会のすべての議員席に賛成、反対の2つのボタンを付け、議長席の記録器にまで繋ぎ、投票結果を瞬時に判断することのできる仕組みだった。

 

 

しかし、マサチューセッツ州議会のすべての議長に会って、発明した電気式投票記録機を導入することのメリットを説きましたが、「結果をすぐに決めることが大事なわけではない」と言われ、ついにどこの議会でも導入されることがなかった。

 

 

エジソンの発明についての名言にこんなものがあります。

エジソンはきっと、誰かの役に立たないものを発明しても仕方ないと、この初めて特許を取得した発明での失敗によって学んだのだろう。この失敗から多くを学んだエジソンは、この件以降 株取引の相場を伝える”万能相場表示機(GOLD PRINTER)”という機械を発明し、4万ドルの大金を得る。少し前のエジソンの月給が25ドルでしたので、その巨額さが分かると思う。それをもとにして工場をどんどん立てていき、”電信自動受信装置”や”四重送受信装置”、”自動電信記録装置”などつぎつぎに発明し、エジソンの会社にも、それを使用する電信会社にも大きな利益をもたらした。

 

ちょっとした失敗で落ち込んでしまう僕のような人達も、自身の思う「失敗」からもなにか学ぼうとする意思が素晴らしい成功であったり、ささやかな幸せを感じられる生活へのカギなのかもしれないね。

 

 

白熱電灯の研究に成功する

この発明が「世界中から夜が消えた」と称されるエジソンの生涯一の発明だと僕は思っている。

 

エジソンについて多少 知っている方は「エジソン=電球を発明した人」と思われる方もしるかもしれませんが、実際にはエジソンは電球 そのものは発明していない

1872年2月、イギリスのスワンが炭素繊維を使った白熱電灯を発明している。しかし、スワンの白熱電灯は寿命が短かった。白熱電灯を明るくするためにはフィラメントの温度をより高くする必要があるんだけど、そうすることによってフィラメントが蒸発した結果、なくなってしまうのだ。

 

エジソンは一般家庭でも使ってもらえるように寿命の長く安価なフィラメントを探すべく、色々なモノで実験をしました。なかには「友人のヒゲ」という冗談みたいなフィラメント候補素材でも実験したそうだ。しかし、初めにエジソンが完成させた発熱電灯(寿命は40時間ほど)よりも良いフィラメント素材は見つけることができない。

 

6000回ほど実験を重ねたときに、偶然 机に扇子が置いてあった。その扇子の竹を使ってみたところ、なんと200時間も灯ったのである(「偶然 机に置いてあった扇子の竹」を使うところもすごい)。そして10万ドルと巨額のお金を投資して世界中の竹を採取し、日本の京都 八幡男山付近の竹がなんと約2450時間も灯り、エジソンの工場に輸出され「長い寿命で安くて明るい!」と有名になり、何百万個の白熱電灯が作り出され、世界中を照らし始めるようになっていった。

 

なお、この白熱電灯を売り込むための合弁会社を設立したり、自身の直流の電気を供給させるためのシステムを作り上げたという経営者として非凡な一面もあった。というか経営者としての商才も発明に引けを取らないほど半端ないぞエジソン。何をつくったら、何の特許を取ったら儲かるかのアンテナもとてつもなく敏感でしたし、汚いプロパガンダも積極的にやることから「非情な努力家」とも言われるくらいだ。

 

 

 まとめ

上の名言は、前項で述べた白熱電灯成功時にインタビュアーに「1万回も失敗したそうですが、苦労しましたね」と言われた際にエジソンが述べた言葉。

 

 

失敗=成功への一歩」という信念で生涯に渡って数々の発明、成功をされた偉人、トーマス・アルバ・エジソンの半生はいかがだっただろうか。二コラ・ステラとの確執についても面白いけど、書くと半端なく長くなってしまうので省略するぞ。「偉人のクセに性格がクソ」という意見を聞くエジソンですが、そもそも偉人に性格まで良い必要はないからな。

 

 

白熱電灯のフィラメント探しでは

 

エジソンは考え方が理系でもなく、数学も苦手だったから組成から素材を絞って試すのではなく、片っ端からいけそうな素材を試しただけだったから何万回も失敗しただけ。古い体育会系の考え方だ

 

というような批判的な意見もあるようだ。今の人達ってすごい賢いねぇ~。がしかし、それまで誰もできなかったことを実際に可能したのはエジソンだ。この手の成功話には「こうしていればもっと簡単に~~」などという意見がつきものだけど、そもそも「こうすれば~~」が当時 まったく分からないのですから1万回も試行錯誤を繰り返す訳だろうが。

 

 

大抵の場合はよく分からないけど失敗していたり、パターンを変えるけど結局 同じことをして失敗するもんだけど、エジソンは文字通り、「1万通りの『うまくいかない方法』」を確立したところに彼の偉人たるところがあると思う。

 

 

失敗から学ぶ、というのも結構 難しいところがあるものだ。失敗なんて誰も見たくないもの。そこで失敗をしてしまったら

  • 何を目指して
  • 何を用意して
  • このように試行してみて
  • このようになったけど
  • このように失敗した

 

というような項目に分けて記録を作ってみたりすると良いかもしれないね。私も最近のアレコレの失敗の記録をとりはじめた。私の場合、知り合い等にその記録が見られると高いところから飛び降りるくらいには恥ずかしいので、全部 外国語で書いていたりしてるけど。

 

というわけで長くなったけど、エジソンの半生についてまとめてた。

 

ホームランを一本も打たれずに名投手になるピッチャーはいないように、たくさんの試行(失敗)をせずに成功することもないのだろう。

 

 

敢えて失敗しに行け、というわけではない。が、「上手くいかなかったらどうしよう...」とか「もっとしっかりと準備をしてからにしよう...」と躊躇うのではなく、見切り発車でも行動するのも良いと思う。失敗したらなんて後から考えればいいし、やる前からそんなこと考える時間なんてもったいない。

 

 

 

万が一 僕のように既に何度も失敗し、絶望のどん底にいるような人のために、最後にエジソンのこの名言を紹介しておく。

 

 

あと少しかもしれないぜ。

 

 

 

 

 

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