【複雑難解!】『わかりやすさの罪』のネタバレ含む書評・感想まとめ

めっちゃ分かりづらい

と感じたのがタイトルにもある「わかりやすさの罪」。読んでいる中で何度も「回りくどいなぁ…」とか「ひねくれすぎじゃねーの?」、「逆張りか?」と感じざるをえなかった。戸惑いの多い論理展開。目的地がないような文章構成。

 

ちなみに今これを読んでるあなたは

「わかりやすい」=「正しい」

という認識には〇ですか?×ですか?

 

いや正しいかどうかは分からんけど、「わかりやすい」っていうのは「快適」で「良いコト」でしょ…

と考える方は至って普通。極めて現代的である。人間は複雑な環境・社会システムの中に生きている。だからこそ、心情くらいは単純明快でいたい。可能ならば結論も出しておきたい。その都度 考え直していくのはエネルギーがいるし、手間になる。支払う料金が一緒なら鈍行ではなく急行に乗りたい。んめっちゃ分かる。

 

しかし、本書では万能にも思われている『わかりやすさ』を偏重する現代の傾向に警鐘を鳴らすような本に仕上がっている。ぶっちゃけ僕自身、そこまでおすすめはしない。本屋で、

 

他者の想像や放任や寛容は、理解し合うことだけではなく、わからないことを残すこと、わからないことを認めることによってもたらされる。「どっちですか?」に「こっちです」だけでは、取りこぼす考えがある。参考書売り場ではない。

という一節をチラッと見ていなかければレジまで進めなかった。読み始めるページによってはそっと本棚に戻してた。偶然にも手に取って、あれよあれよと最後まで読んでしまったような具合だ。

 

 

というワケで、今回は「わかりやすさの罪」について。

随所にネタバレや本文の引用もあるので、気になる方はここらでブラウザバックしてね。

 

 

 

 

わかりやすさの罪
大まかな内容

“わかりやすさ"の妄信、あるいは猛進が、私たちの社会にどのような影響を及ぼしているのだろうか。 「すぐにわかる! 」に頼り続けるメディア、ノウハウを一瞬で伝えたがるビジネス書、「4回泣ける映画」で4回泣く人たち……。

「どっち」?との問いに「どっちでもねーよ! 」と答えたくなる機会があまりにも多い日々。 私たちはいつだって、どっちでもないはず。 納得と共感に溺れる社会で、与えられた選択肢を疑うための一冊。

引用:Amazon「わかりやすさの罪」

 

まずは、そんな「わかりやすさの罪」の概要を紹介していくぞ。

 

 

わかりにくい!

読むのに手間取る

というのが正直なところ。いやネガティブな意味ではなくて。

そんな否定的なレビューじゃ読む気がおきんわ!

という方は是非、本書を読んで考えを改めてほしい。マジで、ネガティブな印象ではなく、自分の頭で考えさせられるのです。否が応でも。

 

 

分かりやすさも大事だけど…

誰にでも届く、わかりやすい言葉・説明も大事。

しかしそれを日常の、何気ない生活の中でまで際限なく求めてしまうコトには弊害はないのか?と疑うべきだというコトを終始 述べられています。

 

赤ちゃんを犬猫と一緒に育てるのは危険!
無菌室で育てろ!

という意見には「うわ頭おかしい、近づかんとこ…」と思う人でも、「必要最低限の情報」で「誰にでも差支えのない」ような表現には無関心。

 

まぁそれでも良いんでしょうけど、それを求めすぎる現代の風潮に異を唱えるのが著者の武田砂鉄氏である。

 

 

著者の武田砂鉄氏

著者は武田砂鉄さん。

泥沼ともいえる「嫌韓」界隈にもズバリ意見をいうコトから極左、流行左翼などと呼ばれることも。

 

僕は「わかりやすさの罪」を読むまで存じ上げなかったが、落ち着いた文章ながらにも「なんだこの人…」と思うような奇抜な言動をしているようで、親しみを覚えた。毎日新聞の有料記事が気になったので購読してみたけど、身に覚えのあるような罪悪感。

 

 

気になる方は是非。

 

 

分かりやすさの罪
参考になった文章

先述したように、本書はあくまで著者の思想を論じた本であり、社会経験の浅い僕としては「わかりにくい」本だった。同様に、読者によっては

なんだよこの本、何が言いたいのか分からねーよ

要点が見えない!

と好き嫌いが分かれると思う。しかし、分かりにくそうだからといって忌避しないでほしいとも思う。ちょっとくらい「苦手かも…」と思っても、是非 試してほしい。僕は「Mom」というバンドの曲を避けていたんだけど、最近 友達がしつこく勧めてくるうちに当記事の執筆中にループ再生するくらいになった。

 

というワケで、「分かりやすさの罪」を読んでみて僕がグッときたり、違うと思った一節を抜き出しておく。少しでも気になるフレーズがあったら嬉しい。

 

 

人間を一気に理解することはできない…

日頃、私たちは、推察して、決定する。

様子を見て、態度を決める。

属性を知って、受け入れる。

「一体あんたに、私の何が分かるっていうの!」というブチキレが親密な関係性で機能しやすいのは、人を理解することが親密の証であるからこそ。

(省略)

人間を一気に理解することはできないので、情報を得たり、接触を積み重ねたりしながら理解していく。一気に詰めてくる人もいれば、いつのまにか近づいていたという人もいる。いずれにせよ、そこにパターンはない。

 

 

相手の立場に立った説明というのは…

「ひとりよがりの説明に陥らず、相手の立場に立った説明。それこそが必要なのに、生半可な専門家は、知ってる単語を駆使して、関係者しか理解できない説明文を書いてしまいます。」

という池上彰さんに対する著者の考えが、

物事を説明する時にまず考えるのは、自分自身がその物事についてどのように考えているかである。当然のことだ。頭の中をまさぐり、そこにある考えを抽出し、できうる限りの整理を試みた上で、相手に投げかける。

(省略)

「ひとりよがりの考えにならず、相手の立場に立った説明」と池上は言う。相手の立場に立つというのは小学生のころから繰り返し言われてきたことでもあるし、社会問題を考える上で守るべき視座ではある。ただし、こうも思う。説明とは、ひとまずひとりよがりなものではないか。

そして

世の反応や語句説明の平均値に幅寄せしていく行為は、「私」をどこかしらで捨てることを意味する。

とのこと。

う~~ん。これに対しては同意しかねる。

話す、書く、とは押し並べて主観であることは正しい。五体投地したくなるほど正しい。しかし、説明がひとまずひとりよがりのモノだったとしても、頭の中で説明を形成するプロセスが個人的なモノだとしても、説明する上では相手がいるんだから、平均値に幅寄せしていく行為(≒より分かりやすいようにする努力)のことを「私をどこかしらで捨てること」と表現するのは過激すぎる。「相手に寄り添う」とした方が波風は立たないし、より平和的じゃないか?

 

ちなみに、そのあとに

相手の立場に立った説明というのは、「私」をはく奪してから生まれる。

という文章に繋がる。どういう論理展開がされるか気になった方は読んでみて。マジでこのフレーズが気に入らなすぎて何度も見返した。理解に苦しむ。そのまま放置。

 

 

今そこで、すでに輪郭を帯びているものしか…

そこにいるだけでは価値が認められない社会において、自主的に価値を探し出し、打ち出し、強化していく。その繰り返しによって、やがて他人から価値を認められていく。生きていくうえで、あらゆる場面でプレゼンが必須になっている。

自分の行動なのに、おい、それに意味があるのか、あるんだろうな、と尋問されるのは、相当にしんどい。そうではなく、相手が何をして、何を考えているのか、それがどうにもわからない、という状態をそのまま放置しておきたい。不在・無理解・無目的が充満していると、今この社会は集団は、個人は、すっかりそれを、在る・理解・目的に変換して可視化し、「不」や「無」をごっそり削り取ってしまう今そこで、すでに輪郭を帯びているものしか受け付けない姿勢を晒す。

 

 

「単純即効」が急がれ、かったるさが許せなくなる

一橋大学の中北浩爾教授が授業で、ある政治家の発言について「学生にマイクを回して見解を聴くのですが、8割方は多数決がいいと。少数の反対で決まらなくなることへの恐怖感がすごい」と述べる。

長時間による合意形成、あるいは合意が得られない状態のまま据え置くという判断を、こわがっているそうなのだ。みんな同じ意見を探して安心する。これを続けていると、笑いについても、同じ笑いを共有したがる。同意が笑いになる。「単純即効」が急がれ、かったるさが許せなくなる。

 

 

受け止める方が、その「っぽさ」を頭の中で予測し…

漫才コンビ・中川家の弟・礼二が、ラジオで実に興味深いことを言っていた。モノマネを得意とする礼二は、誰もが知る有名人ではなく、どこかで見たことがあるような人間を模写してきたが(例:「香港映画に出てくる人」)、彼に続くように、マニアックモノマネを披露する芸人が次々と出てきた。『とんねるずのみなさんのおかげでした』では「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」が人気企画となったが、このコーナーの存在は、彼のモノマネのような事例があってこそ。それらの番組で披露されるマニアックモノマネでは「○○が○○の時、○○している…」とディテールがあらかじめ語られるが、礼二は、それではいけない、と言う。「ふりを丁寧に言わんでええねん。これはもう、最高のヒントですよ」とのこと。

 

状況を詳しく説明するのではなく、「想像さすんです。『香港映画!』でええねんね。『香港映画の雰囲気!』くらいでええ。『香港映画でジャッキー・チェンが○○して○○した時!』(という言い方だと)もうそこで終わってんねん。もう見る方も『見た』ってなんねん。今さらやられても、『だからそうやろ(となる)』」とのこと。

 

つまり、大枠のまま、それっぽい感じのモノマネを投げてみると、受け止める方が、その「っぽさ」を頭の中で予測し、結び付けてくれる。具体的な対象がいるわけでもないモノマネを、不確かなまま投げると、見る方が具体化してくれるのだ。

純粋に「はぇ~~~~(感嘆)」となった思考の流れ。

 

 

「私って○○な人なんだよね」

「私って○○な人なんだよね」と切り出してくる人を大いに警戒するようにしている。自分が「○○な人」であることは、他者との対話や集団の中での位置どりなど、時間を重ねて形作られ、尚且つ、ずっと変化し続けるものなので、最初から自分の人間像をはっきり規定してくることにたじろいでしまう。時には、「こう見えて意外と人付き合いが苦手なんだよね!」みたいな積極性を浴びることもあり、こう見えて?意外と?苦手?と複数のクエスチョンマークがそのまま放置されることになる。

非常に良く分かる。

なんとなく苦手だったことが、理論的に説明されていく様が気持ち良かった。

 

 

「花火がきれいだった」に理由は必要なのか

学校の現場(作文)で「なぜなら」が重視されていることに対して、

少なくとも、自分が子供の頃にはこういう縛りはなかった。「先生あのね」で書き始めるように言われた記憶はあるが、「なぜなら」は必須ではなかった。「花火がきれいだった」に、理由は必要なのだろうか。客観視せよ、自分を分析せよ、ということなのか。

いや、そんな難しい話じゃなくって「花火がきれいだった」の一言では作文の練習にならないからでは…?特に理由がなくてもそう感じたことをそのまま投げつけるだけでも良い。しかし、他の人に伝える表現として「作文」を習っている場合は、ある程度の「なぜなら」もしくは「どうして」、「どのように」的な説明文は必要かと。

 

「学校教育」と「子供の自由」、これを等しく扱えというのは無理があるように思える。感情に理由は必要ない、というのには同意だけど、やっぱり「作文練習」だからな。

 

 

わからなくてもいい状態が…

一体これは何なんだと不安になり、「すぐにわからなくてもいい状態」を捨てたくなる。答えが欲しい。その状態が残ることを怖がるようにもなる。「意味不明」の状態に、ヤクザばりに恫喝して「意味」を付与するのである。そのままにしておく、断片のまま泳がせておくのを煙たがるあまり、わからなくてもいい状態が、すっかり苦手になっている。私とあなたの意識のズレを埋めようとする。別にそれは埋めなくてもいいのではないか。

あらゆることは複雑で多面的。

ほぼすべての章で、その複雑さを無視して分かりやすさを求める大衆やマスメディアに対する懸念が滲み出ていた。分かりやすいだけならともかく、雑で目立つような「単純で強い」言葉に踊らされないようにしたい。

 

 

仲間かどうかを確かめ合う方法

あらゆる議題に立場を明確にすればするほど断絶が生まれるが、明確であることに対して、仲間が寄り集まってくる。断絶を欲しているのだろうか。仲間かどうかを確かめ合う方法が、敵が一致しているかどうかになる。そうだよね、そんなこと考えてるヤツ、絶対に敵だよね。そこから前にも後にも横にも広がっていかない。位置が定まればそれでいいのか。

 

 

「論破」

ネットで強い言葉を使う人たちが「論破」という言葉を好むのは、本来、「論」というのはぶつけてもぶつけても、なかなか「破」に至らずに、繰り返し議論していく体力を要するものだとの認識がないからである。議論を知らないからこそ、一言二言で「論破」できてしまう。自分の考えに絶対的な自信もお持ち、そこから見える風景だけを肯定する。

なんとなく

「あきらかに間違っている論理」

は、あると思っていたけど、そうでもないのかもしらん。ペットとして飼うならネコorダンゴムシ?という滅茶苦茶な論題であっても白熱するのである。動画ではひろゆきにダンゴムシを押しつけといて、「ダンゴムシの魅力って何なんすか?」と強行突破しようとするJOYがウケるから是非 見てね。

 

 

昨今、跋扈している暴力的な断定は…

他人の価値を、自分の中にある価値観で査定する。少なからず、誰しもやってしまうところだ。そこには後ろめたさがある。後ろめたさを抱えたまま、それでも口に出してしまうことがあるし、結果として猛省する。思考が迷子になってしまった状態を整理する時にもっとも簡単なのが、自分の考えていることを盲目的に信じてみること。自分の頭の中で最たるスペースを締めている意見を抽出し、自分は絶対にこう思っているんだ、こうに違いない、それを信じれば絶対に真実が見つかると勢い込む。

昨今、跋扈している暴力的な断定は、おおよそこの仕組みの中にある。自分の信じていることを、なにがあっても曲げられない人たちが、「だって、そう思ったんだもん」と駄々をこね、揺さぶられない確固たるオピニオンであるかのように流してくる。

……

 

 

わかりやすさの罪
読書レビュー

ヒマな人にオススメ!

な「わかりやすさの罪」という本だった。

 

僕は気になったページの上端を折る癖があるんだけど、気づいたら上のような具合で、随所に「なるほどなぁ」と思う部分もあれば「いや違うでしょ」という満遍なくあった。読んでいると否が応でも自分でも考えさせられるので、普通の本よりも読了までに時間がかかった。

 

実生活が忙しい…!

という人は読まない方がいいかも。タイパ(たいむぱふぉーまんす)最悪。多分 イライラするだけで、読み切る前に本を閉じるでしょう。シンプルで分かりやすい、からは遠く離れている。

読んでいて心躍る、楽しい本が読みたい!

という人は絶対に読まない方が良い。著者の批判する対象が広いので、読み方が悪いと社会に嫌悪感を持っちゃうと思う。というか最後まで読み切る前に「難しい…メルカリで売ろ…」になっちゃうと思う。心は踊らされるどころか、正座させられるような塩梅だ。

 

じゃあ誰にオススメの本なんだよ!

心に余裕・余白のある人かなぁ。『分からない』という経験は『分かり始めるの入口』だそうです。しかしながら、ある程度は分からないことを愉しむ余裕が必要だと思った。

 

 

雑に考える土壌を育てないためにも、たまには「わかりやすさの罪」のような本を読んでもいいのかもしれない。理解する忍耐力が鍛えられる一冊。

 

以上。

少しでも気になった方は読んでみてね。

 

 

 

 

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